いきもの

この前「生物と無生物のあいだ」という本を読んだのですが、
この本の中で、生き物は常に物質の流れにあると述べられていました。
 
つまり、人を構成する分子は
非常に短いサイクルで入れ替わり続けていると。
 
では人間を構成する実体とは何か、というと、
「その物質の流れの中にあって、秩序を保つもの」とされていました。
 
でも、それって、
「ロックの靴下」のパラドクスのひとつの答えになるのかしら。
 
たとえば、靴下の穴が開いたときに別の布でつぎはぎをする。
その後も穴が開き、靴下を修復するという行為をし続けたとして、
元の靴下がすべてつぎはぎの布に置き換わったとき、
その靴下は元の靴下といえるのかどうか、というもの。
直感的には「ちがう靴下」ですよね。
 
話を生物に戻すとして、
もともと体を構成する物質が摂取した物質を構成する分子とスワップし続けると、
それは果たして元の生物といえるのだろうか。
僕らが僕らを意識する脳さえも一年後にはすべて入れ替わっているのだから、
僕らの実体って、なんか、さらに抽象的なものに行き着くと思う。
 
生きている僕らの体をひとつの熱力学の系とみなすと、
系内のエントロピーは減少し続けるというのは当然で、
そうでないと秩序が失われて、僕らの体は分解を始めてしまいます。
では、エントロピーを系外に排出する原動力は何か?
この問いは本質的に「物質の流れの中にあって、秩序を保つもの」と同値です。
 
靴下の話でいうと、つぎはぎを張る際になるべくぴったり継ぎ合わせて、
修理後の靴下の形が大きく変わらないようにする。
こうすれば元の靴下の布がすべて入れ替わったとしても、形は保存する。
このときの形を維持するなにかが、僕らの実体ということになります。
 
そもそも、こんな僕らを何が生んだのでしょうか。
断熱系では当然ながらエントロピーは増大し続け、
無秩序に向かおうとします。
で、基本的にマクロスコピックに系を見れば、
どの系も断熱系とみなせると思うんです。
 
微視的にみれば断熱系でも特異な、
エントロピーの減少が短い時間の間に見られることもあるでしょうが、
なぜこうもマクロに僕らが存在できるのか、
たとえば原始の海で起こった特異な現象―たとえば自己組織化―が、
今の僕らの生の実体まで分枝、増幅して行き着いて、
しかも生命現象がはるか昔の、その一現象に集約されるとしたら…。
 
魂とは、そこにあるのかな?
死とは、その現象が維持できなくなるような外乱―たとえばガン―のせいなのか。
それとも、度重なる「つぎはぎ」で、形が維持できなくなるのか…。
これ以上追求するときわめて形而上学的な議論になりそうですが、
魂があまりにもろい土台の上にある気がして、すこし怖いと思うのです。