酒について -主に失敗にまつわる話-

またいろいろ思っていることを書いていこうと思う.
今日は,アルコールの話.


私は,かなりアルコールが好きなほうだ.
今では週末の夜にダラダラとビールを数缶+ワインボトルを開ける程度だが,
若いころ,特に20台半ばのころには平日休日を問わず焼酎1升が数日でなくなるような飲み方をしていた.
 #今それをやると翌朝大変なことになるのでやらない

それだけに,アルコールで失敗したことも多々ある.



初めて酒で大きな失敗をしたのは,20歳のころのクラスメイトとの忘年会.
2003年当時の割と売り出されていた焼酎である「上海ブルー」を何度も友達と一気飲み競争したことがあった.


途中から記憶がおぼろげになり,
「寒い!寒い!」「殺すぞ!」みたいなことを言っている自分を遠くから見下ろすような記憶がちらほら.


気づけば,酔いつぶれた友人たちが5人ほど転がる,クラスメイトの下宿で朝の4:00ごろ目覚めた.


そのとき発した第一声が「僕吐いた?(服がゲロ臭かった)」だったのだが,
そこにいた友人たちに失笑されたのをよく覚えてる.
よく聞くと,救急車を呼ぼうか迷うレベルのひどい状態だったらしい.
 #実際,数日は腸炎でひどいことになった



それからは,たとえあおられたとしても一気飲みは一切しなくなった.
でも,酒の失敗は比較的続いた.
若いころはそれこそ,1年に1回はやらかしていたと思う.
 #概ね20代での失敗は,何かしらの形で酒が絡んでいることが多かった



逆に,最後にしでかした酒の大きな失敗は29歳の時だ.


これはそれまでの私の酒に対するとらえ方に一つの大きな傷ともいうべき指針を与えた.
それは,20代最後の思い出として,屋久島に一人旅に行った時のことだった.


屋久島(九州)の最高峰である宮之浦岳を一泊二日で縦走した私は,
その日の宿を求めて屋久島の某集落にあるゲストハウスになだれ込むことになった.


当日は9月の連休でどの宿も満杯だったが,
その宿だけは快く受け入れてくれ,しかも盛大な酒宴を開いてくれた.
メンバーも20代の男女中心で,ノリも話題もよく合い,純粋に楽しい夜を過ごしていた.
 #当時は,楽しいし連泊してもいいな,と考えていたくらい


しかし,その中にいたメンバの一人がひどく酔っ払いはじめ,徐々に言動が荒くなり始めた.
彼は元自衛隊とのことで,素面の状態では極めて好青年だった.
しかし,やはりというべきかガタイは相当よく,酔っぱらうと何をされるかわからない怖さがにじみ出ていた.
 #「賭けしようぜ!お前,こいつの年齢何歳だと思う!?」とか言い始めてた


私は途中から彼とは少し距離を置いて,屋久島の焼酎である「三岳」をほかの旅行者と飲んでいたのだが,
自衛隊はあるとき,自分の財布の中のお金が減っている,と,のたまい始めた.
このとき2:00ごろ(こんな時間まで盛り上がっていた)で,メンバーは5人ほど.
自衛隊と,20歳のアフロと,女性のヘルパーと,もう一人(あまり覚えてない)と,私.


彼はその場にいたアフロを「お前怪しい」と名指して言い始めた.
私はしばらく黙って聞いていたのだが,少しずつムードが険悪になり,
少年は「俺じゃないっすよ〜」とか苦笑いで徐々に困りはじめてきた.

その後もしつこく元自衛隊はアフロに絡んでいたため,私はここでキレてしまった.


「お前,証拠あるんかボケ!」
「こいつ(アフロ)が犯人じゃなかったらお前責任とれるんか!」
「さっきからお前,おもんないねん!気分悪いやろそんなん言うたら!」


酔いに任せたこともあり,ボロカスに言った.
自衛隊の人も顔を赤くして怒り出し,結構やばい状態だったと思う.
このとき私自身かなり深酒をしていたが意識だけはしっかりとあり,
下手したらこれ殴り倒されるな,歯とか折れるんだろうな,と,人ごとのように思っていた.


で,結局トラブルになりそうになり宿主の方が起きてきて,とりあえずその場は収まった.
自衛隊の人は怒って机を蹴って部屋に戻っていった.
その後「私の監督不行届です!」と,宿主が私になぜか土下座して,
ヘルパーさんも「何でこんなことになったんだろ…」って泣いてしまってた.


私はそれでもいら立ちを抑えきれず,
アフロに「疑われて悔しくなかったんか!」と言った後,
「こんなことがあったんじゃ,もうこの宿にはいられない」と,荷造りをして宿を飛び出した.
 #これだけ書くと,やっぱり私自身も結構酔っていたように思う


深夜の道を走りながら,何でこんなことになったんだろう?と空しく思った.
満月がぽっかりと浮かんでいて,その寂しい感じがなおさら後悔の念をあおった.
道が暗くて見えず,仕方なく夜明けまで草地でブルーシートを敷いて,体育座りで仮眠しながら朝を待った.


こうして,20代最後の一人旅が終わりを迎えようとしていた.




後日談.


宿を飛び出した夜,朝を待った私はそのままフェリーに飛び乗り,鹿児島市内へ向かった.
アフロもいたたまれなくなり宿を飛び出したようで,朝日が差し込むフェリー乗り場で再会した.
私の中でやはり気まずさもやや残っていたため,彼とは鹿児島中央で別れた.


そして桜島滞在中,宿主から電話があった.
自衛隊の勘違いで,財布の中身は財布ではなく,カバンの中にあったらしい.

さらに,
「元自衛隊の人にも,翌日宿を出て行ってもらった.
 しかし彼は(私に)心からお詫びをしたいといっている.
 鹿児島市内にこれから向かうといっているが,あなたの連絡先を教えていいか?」
と宿主から打診があった.私はそれを断った.


なんだか,酒の場での粗相によって,これ以上20代最後の思い出が切なくなるのが苦しかった.
それに私もあの場を荒らしてしまったという自責の念もあり,謝られることに対して少し違和感があった.



私はただ,おいしい酒を飲みたかった.
そのために,私はあの時ぐっと我慢すべきだったのだろうか.
もしくは冗談ですませていれば,あの時のメンバはバラバラになることなく一緒に連泊して楽しく過ごし,
20代の思い出を大団円で飾ることができていたのだろうか.
いや,思い出をきれいに飾るということも,ひょっとするとエゴなのかもしれない.


今でも「三岳」をたまに量販店などで見かけると,それを買って,
水割りを作ってちびちびと飲み,あの20代最後の旅の,あの屋久島最後の夜を思い出す.
 「あるいは元自衛隊の人と鹿児島で再会して,僕もあの夜酔っていたことを謝るべきだったのだろうか」
 「彼は,今でもあの夜のことを気に揉んではいないだろうか,私が再開を拒んだばかりに…」
逡巡しても,答えは見つからない.



その宿は,私が滞在した翌年になくなった.
女性のヘルパーさんも,ずいぶん前にヘルパーを辞めたと聞いた.
酔っぱらっていなければ,という思いは巡るが,もう答えは見つからない.