死生観

昨日は4年ぶりの野外親睦会.

まあまあ楽しかった.ちょっと飲みすぎたが…

 

今日は簡単に英語台本をさらった後,ランニング,子供ごはんで終える.

やや酒が残っていたので夕方以降はウトウトして過ごしていたのだが,やはり漠然と,肉親の死が近いことに対する独特な空気感を感じてしまう.

 

いつかは失われてしまうものだとはわかっているし,過去の祖母の死を通じて概ねどう心の整理をつけていくのかだとか,親しい人がいつもの場所にいない喪失感というのも何となくわかる.

でも,この名状しがたい,ぶつけたいのにぶつけられない漠然とした喪失めいたものは何度経験しても慣れない.

これを悲しみというのだろうか.

 

私の人生において,自身の死生観に大きな影響を与えるような,重要な意味を持った死は,祖母と高校の恩師だった.

祖母の死は,もともとの発端から病院に付き添い,病を得て徐々に弱っていき,その死が訪れる瞬間までそばで観ていたので,私の死生観のようなものはそこで固定された.

桜が咲き誇ったあとに散り,葉桜のにおいが漂ってくるような晴れた午後の昼下がり,私が生まれたその病院で亡くなった.

もう来年で20年も前の出来事になるが,この季節になるとあの一連の出来事を思い出さないことは無い.

夜の病院に泊まらせてもらい,簡易ベッドで祖母の横に寝たあの夜.何となく不穏な死の気配のする病室で,最後に祖母と穏やかに語り合った.

 

人は死の直前でも何かの途中なのだ.

確かに祖母は生きようとしていた.こうやってベッドに寝ていると筋肉が落ちるから,と言って,拳を握っては開く動作を,ふぅ,ふぅ,といいながらしていた.

ふぅ,ふぅと口をすぼめて息を吐くしぐさは,一生懸命に何かをするときの祖母の昔からの癖だった.

 

死の淵にいることを信じようとせず,最後まで何かを成し遂げようとしていた.

そこに人が生きる意味があるのだと思う.